理研農産化工㈱
   創業100周年記念祝賀会開催
  鵜池直之社長冒頭挨拶
 社会貢献する企業精神継続
   
   理研農産化工㈱(福岡市東区・鵜池直之社長)は先週末の11月17日、福岡市博多区のホテル日航福岡「都久志の間」において操業100周年記念祝賀会を開催した。
 祝賀会は午後2時から始まった。専務取締役の牛島治義氏が開会挨拶を行い、引き続き日本経済新聞社元会長の平田保雄氏
(写真左)による「日本経済の展望と課題」を演題にした記念講演が行われた(平田氏の講演内容については続報)。
 午後4時から始まった記念祝賀会では、同社の100年の社歴を映し出した社史ムービーが披露され、終了後に代表取締役会長兼社長の鵜池直之(なおじ)氏が登壇し、挨拶を行った。
 鵜池社長(写真右)は激動の100年史について話しを進め「我が社の歴史は、何と言っても創業者鵜池四郎の歴史である。創業者の生涯は事業経営への挑戦の歴史でもあった。第一の挑戦は家業の再興である。第二の挑戦は家業を改善し商業から製造業への転換。第三の挑戦は、終戦による大打撃の克服であった。第四の挑戦は創業の地蓮池町から移転し佐賀工場を建設した事である。第五の挑戦は、福岡工場の建設であった。我が社の100年を振返ると、ほぼ30年毎に三回の大ピンチに襲われている。このピンチをチャンスに変えて乗切り今日に至っている。自助努力で懸命に取組んだのは当然であるが、皆様から力強い御支援を頂いたお陰で乗切る事が出来た。100年を迎えるに当り衷心より御礼を申し上げる次第である」語った。
 鵜池社長は創業当時の状況については「近在の農家から米や麦を買入れ、買取った米を米取引所に運び込んで売渡す。また、肥料を売って一部は米や麦で代金を回収するなど、農家に頼まれて小規模な金融のお手伝いをする事などこれが鵜池の代々の家業であった。ところが明治44年四郎10歳の時、祖父が亡くなり、その半年後に34歳の若さで父親も亡くなった事で家業が中断した。それから6年後、16歳に成長した四郎が家業を再興した大正6年1917年を我が社の創業の年だと 置付けしている。四郎の努力と才覚で商いは大発展を遂げたが、相場変動が激しい玄米に比べると、価格や利潤が安定していた白米の販売に方針を変え商業から製造業に大転換をした。工場には19台の精米機がU字型に並んでいた。また、流通の合理化を考え、五台の荷馬車から始まり、次にトラックや運搬船に変わって行った。二隻の運搬船に500俵の米を積み込み筑後川本流にあった若津港で長崎を経由し大阪に行く定期航路に積み替えた。鵜池商店の一番の得意先は長崎で、二番目が大阪であった。当時長崎に入る米の六割を鵜池商店が占めていた。鵜池商店はいつしか、九州一の精米工場を有する佐賀県一の米の取扱い業者に成っていた」
 「この後、精米工場から発生する大量の米糠を原料とする製油工場を建てた。長崎県の佐世保市にも第二製油工場を建てた。ここに理化学研究所で開発された連続圧搾抽出製油機を導入した。また、同研究所から西日本地域の独占販売権を得たが、この事がその後、鵜池商店から理研農産化工に社名を変更する事に繋がって行く。昭和13年に成立した国家総動員法により、資源の統制が強化されて行き、鵜池商店も蓮池工場が陸軍、佐世保工場が海軍の軍需工場になった。その後製油機械も軍需徴用された。その保証金で戦闘機一機を国に寄付した。明治生まれの鵜池四郎は、愛国報恩を信念としていた。蓮池工場に70人、佐世保工場に100人の従業員が働いていたと記録されている。これが私が小学生になる前後の、今から約80年前の鵜池商店の原風景であった」と語った。
 同社長は戦後の事業展開については「昭和20年に戦争は終わったが、軍需工場であったため、精米工場と製油工場、佐世保工場も操業停止になった。これを打開するために佐世保工場で石鹸の製造を始めた。戦後は大変な食糧難になったが、これからは食糧の大 生産と鉄道による大 輸送の時代がやって来ると考え、専用引込線が可能な佐賀駅東に工場建設を決断した。これが製粉工場を主力とした佐賀工場である。鉄筋コンクリート五階建ての製粉工場建設に続いて、短期間のうちに製油、有機肥料、配合飼料、穀物加工、ミックス粉の順に工場が完成して行った。佐賀工場と伴に、社名を理研農産化工に変えた。営業拠点として長崎、佐世保、佐賀、福岡、大阪、東京に土地を買い、建物を建て営業のネットワークを築いた」と述べた。
 鵜池社長は製油事業については「その後、製油部門の発展について大きな問題が出て来た。製油業界は激動淘汰の時代に入り、佐賀工場の事業規模では生き残れず、製油事業を止めるか大型臨海工場を建てて、生き残りを目指すか二者択一の選択を迫られたのである。巨額投資を必要とする大型工場の経営に失敗すれば、間違いなく会社倒産に繋がる。大きなリスクに挑戦するぎりぎりの厳しい選択であったが、四郎社長は福岡進出を決断した。福岡製油工場の計画は土地が2万坪、総工費が80億円であった。ところがオイルショックが起こり、建設が5年遅れた為に、完成した時に四郎社長は80歳になっていた。この事が後の大苦難に繋がった。資材高騰と大豆蛋白工場を追加建設した為、建設費は120億円に膨れ上がった。過当競争の製油業界に最悪のタイミングで乗り出したのである。二代目、三代目、四代目社長も四郎会長の元で大変な努力をしたが、残念ながら創業以来10億円の赤字が10年間続いて100億円と云う大赤字を出してしまった。巨額な赤字と借入金を解消する為、佐世保工場と大阪営業店を売却して作った57億円で補填したが、それでも足りなかった。1985年に私が子会社の社長から福岡工場に移って来たが経営は大変な状況であった。それから12年後、96歳の会長は、体調が極度に悪化し、入院先の病室で〃私はもう 目だろう、全てを任せるから君がやれ〃と社長交代を告げられた。2001年4月に満100歳で会長は亡くなった。最後の言葉は〃会社は私の命です、直之君しっかり頼みます〃であった。過当競争で疲弊した製油業界は、大手メーカーと準大手七社が合併し、三社となった直前の時期であった。我が社も待った無しの状況で、経営三カ年計画を打ち出した。内容は一に黒字転換、二に先送り案件の処理、三は対策として土地7000坪を処分する事であった。先送りとなっていた子会社三社を整理精算し、配合飼料工場を閉鎖し穀物加工工場も解体した。その四方で、第二ミックス工場を建設し、製粉部門の業績回復を行った。全社員に危機感を持たせる厳しいスタートであったが、一年目で黒字転換する事が出来、三年目には25年ぶりの配当再開が出来た。2010年に六代目社長に交代したが、その五年間は結果的に失敗で、会長として支えきれなかった私にも責任の半分があった。社長に復帰するには悩んだが、一年目で黒字回復が出来た。私共は創業者の精神に思いを馳せ、これからもしっかりと経営に取組んでいく。なにとぞこれからも今までと同様、変わら 御支援をお願いしたい」と語り挨拶を締括った。
 



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