全国油脂販売業者連合会
  宇田川会長が油問屋の歴史語る
  油脂未来セミナーを開催
 油の価値を伝えて存在感示す
   全国油脂販売業者連合会(宇田川公喜会長)は14日、東京・中央区の中央区総合スポーツセンターで第一回「油脂未来セミナー〜油の花から実へ〜」を開催した。油脂未来セミナー実行委員会(館野洋一郎委員長)が企画・運営した。
 同連合会では「油の価値を的確に理解し、伝えることができる力」「油の新しい価値を創り出せる力」を体得することによって、油脂販売業者全体が「メーカーとユーザー・消費者の双方にとって価値ある存在」になることを目指し、「油脂未来セミナー〜油の花から実へ〜」を開催することになったもの。受講対象者は同連合会の会員各社の若手・中堅の従業員で、講義と体験学習(グループ討論、視察、テイスティングなど)を組み合わせた内容を3〜4カ月に一回のペースで2年程度を目安に継続して開催する予定。基本的には東京・愛知・関西の3ブロックでほぼ同時期に同じ内容で開催し、数回に一度は一堂に会して開催し、交流を深める意向だ。
 第一回の今回は「油と油問屋の歴史」をテーマに、同連合会の宇田川公喜会長が「油と油問屋の歴史を学ぶ」について、また日本植物油協会の齊藤昭専務理事が「世界・日本の油脂情勢の変化、現状の油脂事情に関する各種論点」についてそれぞれ講演を行った。
 司会を務めた館野洋一郎委員長(タテノコーポレーション社長)は「10年ほど前に『油の花フォーラム』という油脂未来研究会があった。若手経営者の会が油脂業界に花を咲かせようという趣旨で始めた勉強会だったと聞いている。その意思を受け継ぎながら、セミナーの副題である『油の花から実へ』とあるように、花が咲いただけではなく実りがある、つまりは我々油問屋がより力をつけることで油脂業界の発展につなげていきたい」と強調。
 それを受けて宇田川会長が「歴史を知ったうえで今後の取り組みに繋げてほしい」と次のように油と油問屋の歴史を紐解いた。 日本の搾油の始まりは貞観年間(859年)、時の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油の製油をしたこと。中世以前は神社仏閣の燈明用油として奉納され、次第に全国に広まり離宮8幡宮は朝廷から「油祖」の名を賜った。離宮八幡宮は油座として油の専売特許を持ち、油商人は離宮八幡宮の許状なしに油を扱えなかった。中世の前半に油は贅沢品となった。寺社や公家が夜間の燈明に使うだけだったが生活レベルの向上で地方の豪族も夜間照明に油を使うようになった。
 寛永年間(1624〜1644年)初期に、東京・大伝馬町に四軒の木綿問屋が開業。 慶安年間(1648〜1652年)には問屋、あるいは仲間と称するものの急激な増加は見られず、商家といえば小売商が多かった。問屋が相次いで誕生したのは明暦の大火(1657年1月)がきっかけとなった。江戸城の本丸をも焼失したこの大惨事により江戸では物資が極端に不足し、小売店がそのつど大坂から物資を取り寄せるやり方では追い付かなくなった。同年9月の江戸町触にはすでに、材木・米・薪問屋・竹・油・塩・茶・醤油などの問屋の記載がある。
 万治3年(1660年)、江戸の霊巖島に「油仲間寄合所」が設立され、大坂からの下り油の売買所と定められた。これが東京油問屋市場の前身だ。358年前のことだ。その後、油仲間寄合所は油会所、油売買所などと改称された。油取引は現物売買が普通だったが限月を定めて延べ売りも行われていた。問屋の仕入れ方法は「送り込み」と「買い出し」があり、「送り込み」とは荷主の裁量もしくは問屋の注文を待って荷主から問屋に送ること。「買い出し」とは問屋が産地に出向く、または中継人に依頼してその場で契約して仕入れる方法だ。主な産品は「送り込み」によるものが多く油も「送り込み」が中心。問屋が力をつけ複数の荷主からの売り込みを待った方が有利な契約ができたためだ。江戸の問屋は荷主に対しても小売りに対しても強い立場となり、やがて十組問屋という強力な組織仲間を結成することになる。
 天保年間(1830年)の江戸の灯油消費量は、長夜(冬)は一日300樽(一樽は約72リットル)、短夜(夏)は一日200樽。幕末の頃には年間10万樽で、そのうち大坂からは6万樽、地廻(関東近郊)の油が4万樽だった。当時江戸の人口は100万人だったので一日の一人当たりの使用量は20グラム。価格は現在の10倍ぐらいで高価だった。徳川幕府は灯油の安定確保のため、原料及び油を大阪絞油業者、絞油問屋へ集中させて特権商法を許していた。明治維新を機に経済が自由化され、イギリスやドイツから新式の製油機や製油技術が伝わり、製油の技術革新が行われた。東京では明治14年に「東京油商組合」が設立。明治34年に「東京油問屋市場」が設立。
 食用油として使われるようになったのは、江戸時代に外国人が来航して脂質の不足から動物脂を諦めて植物油を工夫して食用に使ったという。安永年間(1780年)には「天夫羅揚(あぶらあげ)」、「天ぷ羅」の記述がある。また幕末には輸入油が日本に入ってきたという記述がある。日本で植物油が食用として販売されたのは明治に入ってからだ。 
 大豆搾油の始まり日清戦争後の明治30年代以降で、豆粕製造は明治34年のことだ。搾油は粕の販売のためで、用途はほとんどが肥料。大正2年の菜種油生産量は20万8,907トンで、大豆油は3万8,399トンだった。
 日中戦争が本格化した昭和14年に物価統制令が発動され、油脂については昭和15年に「日本輸出農産株式会社(主に菜種及び菜種油の集荷配給統制機関)」、「日本大豆統制株式会社(大豆及び大豆油の配給統制機関)」、「日本油料統制株式会社(その他の全油種の統制機関)」が設立された。昭和16年にはこの公的機関のもとで、東京、大阪、名古屋などの組合を中心に「全国油脂販売業者連盟(館野栄吉会長、木村治朗副会長)」が設立し、行政当局と油脂販売の卸・小売店の調整をした。昭和20年に終戦となったが、戦後の混乱時代が続き各種統制は継続された。昭和25年に朝鮮戦争が勃発して油脂も一時大暴騰した。同年10月25日に統制は解除された。昭和26年は朝鮮戦争休戦で新3品(大豆、ゴム、皮)が大暴落して油脂業界は大混乱に陥り、多くのメーカーや販売業者が倒産に追い込まれた。その後、同年に東京油問屋市場が復活の企業祭を挙行し、各地区の組合も次々に再開した。昭和28年3月2日には全国共通の課題に取り組む必要から全国団体結成の動きが高まり、「全国油脂販売業者連合会」が設立され、現在に至る。
昭和33年頃の国際連合食糧農業機構調べの各国国民一人一日の油脂摂取量ではノルウェーが60グラム強で、日本はわずか7グラム。世界一少ない。当時の日本人の平均的身長は150センチメートルで、小柄な体格だった。現代人も、熱量の最も高い食用油をもっと摂取してもらいたいものだと考えている。」
 


  日 油